2022/6/14

[55回] 研修医のエピソード 2

前回に引き続き、研修後期の医局派遣先の病院でのエピソードをご紹介します。半年ずつ二か所でしたが、今回はカルチャーショックを受けた思い出深い最初の病院のお話です。


医師になって一年数ヶ月後の夏に出向したのは、長野県境に近い山奥の新潟県南魚沼郡N村(現在は隣町と合併)唯一のK病院。日本有数の豪雪地帯です。澄み渡った空の下に悠然と流れる信濃川と、コシヒカリの田んぼや畑が広がるのどかな風景の中にいる自分を意識したとき、大都会の喧騒とのギャップに、まるで古き良き時代にタイムスリップしたかのような心地になったものです。村人はもとより、水や空気、風さえもが慈愛に満ちているように感じました。一軒だけあったパチンコ屋さんは浮いた感じに見え、噂になるからそこには行くなと先輩から言われていたことを硬く守った私でした。また、肉屋さんの店先の「本日牛肉入荷」と書かれた張り紙には、ちょっとびっくりし、ほほえましく思いました。
赴任の日、一番近い新幹線の駅に降り立った私を乗せた病院の車は、ひと山、ふた山越えて走ること小一時間、ようやく目的地に到着。数十床規模の病院で、親族で内科、外科、産婦人科を担当し、皮膚科と小児科、そして、内科の増援を外部から招聘しているという状況。病院を取り仕切っていたのは院長のご子息、外科の副院長先生でした。

エピソード1:院長


昔からのなじみの方を中心に限定的に診療に当たっていた院長にお会いしたのは半年でわずか2、3回。当時すでに80代の明治生まれの女医さんで、なんと草履を履き着物を着て、ゴム製の長い聴診器をぶら下げて回診している姿を目にしたときは、びっくり仰天でした。
日本で最も早くに誕生した女医さんの一人だったのでしょう。三田佳子主演の女医を主人公にしたNHK大河ドラマ「いのち」のモデルでは?と、後にそんな噂を聞くことになりました。

エピソード2:御巣鷹山

8月1日に赴任後の最初の当直の日。隣に医師宿舎がありそこで待機していてもよかったのですが、一人で広い部屋にいても寂しいしすることがないので、病院事務室で事務当直の職員と一緒になにげなくテレビを見ていました。
18時過ぎだったでしょうか、羽田を飛び立った大阪行きのJALが消息不明になったとの速報。そうです。歴史に残る御巣鷹山の墜落事故。風邪や喘息の患者さんなどを2、3人診察した以外、ずーとテレビにかじりついて見ていました。今でもその時の光景が目に浮かびます。

エピソード3:巡回診療

病気や高齢のため床に就きがちだったり、車で送迎してくれる人がいないため通院できない方が少なくないことから、山あいに点在するいくつかの部落 (数軒程度の集落) へ月に一回、巡回診療をしていました。医師と看護婦さん、RV車を運転する職員の三人で出向き、まさに日本昔話に出てくるような土間がある薄暗い庄屋さん (?) の家にみなさん集まってもらっていました。
集落ごとに苗字はほとんどの人が同じで、トメさんとかハツさんとかヨシさんとか似たような名前の中高年の方たちの診察半分雑談半分で、居間のちゃぶ台にはどこの家にもなぜか野沢菜があり、巡回診療の先々で決まって勧められたものです。果物や惣菜をいただくこともありました。
また、雪が降るころから翌年の雪解けまで、すぐには必要のない方も入院していただいていました。人呼んで「越冬隊」。

エピソード4:決死の往診

ある晴れた冬の日の朝、高齢のご夫婦が暮らす山あいのご自宅への往診依頼がありました。すぐにRV車に乗り出発。夜中に降り続いた雪で道路事情が悪い中で、途中の狭い崖沿いの道やつり橋を渡って行きましたが、目的の家百メートルほど手前で断念。往診カバンを肩に掛け除雪道具を握りしめ、一歩一歩膝まで埋まる道とも言えない道をかき分け進んでいきました。
しかし、ようやくたどり着いた家の玄関は雪の中に埋没寸前状態。三人で汗だくになって掘り起こし何とか玄関をこじ開け中に入ると、薄暗い家の奥の奥の窓のない部屋に、おじいちゃんが湿った分厚く硬い布団にくるまって横になっていました。幸い大したことはなかったのですが、部屋の隅を走るネズミを横目でみてしまったこともあり、なんだかとても切ない気持ちになったのでした。

エピソード5:にわか麻酔医

ある休日の午後、宿舎でゴロゴロしていると外科の副院長先生から応援の要請がありました。新米の内科医に外科の応援っていったい何だろうといぶかりながら行くと、いつも一緒に働いている看護婦さんがお腹に手を当てて苦悶していました。子宮外妊娠破裂のため緊急手術が必要な状態であるが、あいにくほかの医師がみな不在で私しか頼む人がいないとのことでした。執刀は副院長先生で、ベテランの放射線技師さんが助手となり、私は麻酔科医もどきとなって執刀医の指示通り汗だくで任務を全うしたのでした。幸いうまくいったものの、疲労困憊。
技師さんの助手ぶりはじつに板についており、術後の縫合もされていたのには驚きました。これも現実の医療であることを思い知った一日でした。

エピソード6:検死

ある休日の午後。日当直であった私に警察からの電話。数日前から行方不明になっていた人の検死要請でした。パトカーに乗せられ連れていかれた先の崖下に人が倒れているのを見たときは、さすがにビビりました。こんな状況に遭遇したことはもちろん初めてでありどうしたものか戸惑っていると、ベテランの駐在さんが、自分でご遺体の状況を調べながら逐一私に同意を求めるのでした。駐在さんの同意の問いかけに「はい」、「はい」をただ繰り返すのみで、検死は終了したのです。何もせずに、何もできずに、ただいただけの私でした。

ある日の当直の夜。90歳を超える親が亡くなったようですとの家族の電話。看護婦さんと駆けつけると、すでに主だった親戚が集まっていました。心肺停止を確認しご臨終であることをお伝えしました。家族の話によれば深刻な病気はないため、おそらくは老衰で大往生ということなのでしょう。しかし、これではたとえ意図的な力が働いていたとしてもわからないな、とちょっと戦慄したのでした。これも現実の医療であることを思い知った一日でした。

エピソード7:お楽しみ


赴任当初は周りを歩いて自然を楽しんでいました。しかし、あまりにも自然しかないため人恋しくなり、休日には隣り町に行き、駅前の小さなショッピングセンターみたいな所や、本屋さん、食べもの屋さんなどでリフレッシュしていました。
また、患者さんからお礼に日本酒をいただくこともあり、飲めなかった私は部屋の隅にただ置いておくばかりでした。あるとき、TV番組で日本酒を升に入れて実に美味しそうに飲んでいる姿をみて、一緒にいただいていた升に日本酒を注いで舐めるように味見してみました。せっかく一升瓶を開けたのだからと、毎日ちょびちょびやっているうちに美味しく思えるようになり、だんだんと行けるようになっていったのです(飲むと顔が赤くなり、たくさんは飲めませんでしたが)。今では、日本酒に限らず、ビール、ワイン、ブランデーなどその日の気分で選び、ほぼ毎日のように少しだけ飲んでいます。こうした楽しみを持てたのは村人のお陰です。ありがとうございます。
病院の職員は自分たち用の小さなコシヒカリの田んぼを持っている人が何人もいて、いただいた美味しい米を堪能していました。また、私の札幌の実家に送ってもらったこともありました。
派遣医師はみな年齢が近く、休日には何人かで遠く離れたO市の有名な花火大会を見に行ったり、温泉に行ったり、スキーに行ったりと、仕事に余暇に精一杯生きていたように思います。